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Mi
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女性
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表向きは、サーフィン、スノーボード、登山に釣りとアウトドア好きの主婦ですが、
地は、インドア系。
裏の私をお見せします。

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私のマネーライフー〜小学校編〜


ここでちょっと、私の人生(といっても30年弱しか生きていない)のうち
お金の出入り、マネーライフを振り返ってみたいと思います。

長いので、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人に分けて行きます。

では、小学生時代から。

おこづかいを貰っていました。
小学3、4年で1000円で 5、6年で2000円だったと思います。
(当時は中の下くらいだったかな)
盆と正月にお年玉もらっていました。

田舎に住んでいて、月々使うのは近所の駄菓子屋さんくらい。
自転車に乗って坂道くだったり、普段は小学校で暗くなるまで遊んでました。

誕生日とクリスマスに、スーパーファミコンかゲームボーイのソフトを買ってもらって
何回もそれで遊ぶ。交換する、借りパクされる、みたいな。

普通の小学生で、誕生日とクリスマス後は一気にテンションあがり
兄弟、友達の誕生日も新しいゲームができるので、こっちも楽しみでした。

一年間のライフサイクルと、月々の収入と支出は駄菓子という低コストであり
そして誕生日、正月等のボーナスがはっきりしていました。

そんな私の、大蔵大臣は祖母でした。
祖母に言わないと、お年玉や盆小遣いが出てこなかった。
月々の余った分もなぜか吸い上げらていました。
なので、その月の小遣いの中から、駄菓子を買い、
支出がある時は「いくら」と前もって宣言して出してもらっていました。

ですので、いい意味で計画的になり必要な時でないとお金を使わなくなりました。

祖母は、私が余らせたり、節目でもらうお金は全て「銀行」に預け、
3万円ずつ定期にいれるなど、裏でお金を管理、運用してくれていました。

祖母は、私に「お金を管理すること」を教育していたのでしょう。
感謝しなくてはいけません。ありがとう、おばぁちゃん。

数百円のお金も大事だと痛感したのは、姉とバスで住んでいる町の繁華街に行った時。
姉とプリクラを撮りに行ったのです。
うちの最寄り駅から、繁華街まで子供料金でおそらく160円くらいだと思います。

当時、プリクラが出たばかりで 一枚のシートに4×4のサイズだけのやつでした。
因みにプリクラが出たのは1995年だそう。

プリクラの歴史

小さな街でしたので、プリクラは2台しかなかった気がします。
わくわくしながら、バスに乗りました。12月の土曜日でした。
落とすといけないのでお財布は姉に預けていました。
バスが出て、3つくらいのバス停を出たところ姉が
あれ、Mi のも私のも財布が無い」って言い出しました。

運転手さんに話したところ
「お金がないんじゃーね。お代はいいから、次で降りてくれる?」
当時、私は8歳くらいだったと思います。
バスを降ろされて、私はギャン泣きでした。
「なんで、お金がないだけで、遠いところでバスを降ろされ
 楽しみにしていたプリクラも撮りに行けないんだ。
 みんなに自慢したかったのに」と悔しくてたまりませんでした。

姉は高学年でしたので、泣いてはいなかったけれども
何度も私に謝っていました。
(財布は玄関にあった。靴をはくタイミングでかばんを忘れたみたい)

鮮明に覚えてます。
クリスマスが近くて、クリスマスツリーのフレームで撮るんだって言ってた事
帰り道、家まで歩いて、コートが暑くて重かった事、
姉の後ろ姿。暗くなりかけた国道の風景。

当時、正月とか誕生日がくれば、ある程度好きなものが買えたし
欲しいものがそんなにもなかったのですが
あの日をきっかけに
「お金持っていなかったら、好きなところへも行けないし
 好きなこともできない。お金を守らなくちゃ」と思いました。

なので、友達と100円もって駄菓子買う時も、80円までにして20円余らしたり、
小学生のくせに、誕生日プレゼントはゲームソフトはいらないから、好きなもの買うからお金がいいって
言ってました(爆笑)

あと、積極的にお手伝いをして、誕生日のプレゼント額が増える様、ごますったり、
定期的に行われる、大掃除や草むしりで、500円のお小遣いもらったりしました。

本当に、変わった子と言われました。

結果、5年生からサンタクロースは、枕元に現金3000円を置いていくようになりました
ご丁寧に、緑と赤の封筒に金色のリボンがかかって
「これから、お手伝いよろしくね」と書かれているメッセージと一緒に。

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